男たち

何と再会するまでの青嵐の半生

私を長らく援助してきた一人の男が死んだらしい。 忍ではないが、一般人ながら|我々《シノビ》の世界に影響を及ぼすことさえ容易な、いわゆる|フィクサー《黒幕》と呼ばれる人物だった。 里を追われ、行く宛てのなかった私をその男は拾い、用意した部屋に住まわせ、女の何たるかを私に全て叩き込んだ。 男は|ファム・ファタル《魔性の女》という言葉を頻りに口にした。 自分は|マイ・フェア・レディがやりたい《貞節な淑女を育てたい》のではない――傾国の女をこの手で作り上げてみたいのだと。ただ美しいだけではそうは成らない。|業《わざ》の振るえる忍にだからこそ、それは実現し得ると。 要は、私に|その才《可能性》があると見込んだようだった。男が私に与えた部屋は、彼自身が住んでいる家とは違ったようだが、男は足繁く私の部屋に通い、|奥ゆかしく女らしい《愛されるための》言葉遣いや、淑女としての行儀やマナーを、|物知らず《無垢》だった私に身につけさせようとした。残念ながら、筆跡については初見で絶望し、矯正を諦めたようだが。 男を喜ばせる|所作や物言い《手練手管》というのも多く覚えさせられた。多羅尾の小娘などが学ぶそれよりよほど実践的で、私はみるみるその技術を吸い上げていった。 「ああ――藍くん。自分の名前が一人称というのは良くない。これからは『私』と改めなさい」 「はい、教授。分かりました」 男は周りから教授だとか先生だとか呼ばれていたから、私もそう呼んだ。言われたこと全てに従順に頷き、その通りを記憶し、|動作《再現》した。 私は、自分が何されているかを全く理解していなかった。ただ、屋根のある場所に住めること、毎日温かいものが食べられること、女らしい類の内容であれば贅沢も許され、何より、忍法について学ぶのを制限されなかったことに感謝し喜び、思想もないまま、男の囲う檻の中にいた。 当時の私はあまりに幼く、たわわに実った|果実《女》がどのように収穫されるかなど考えが至らなかったのだ。 ある夜のことだった。 私が横たわる――不眠症だから眠ってはいなかったが――ベッドに、不埒な熱が訪れた。瓜を破るなら、桜桃を摘み取るのなら、その時が男にとって頃合いだったのだろう。 「……っ!?[#「!?」は縦中横] そんな――藍は、私は、そんなこと嫌です……っ!」 そういうものだから、と男はいつもと変わらず諭すように言う。耳にかかる息が熱く粘っこい。思わず懐の中でクナイを握り込む。 果たして、私の拒絶に意味はなかった。この男を殺せば、今今|この身《貞操》を守ることはできるが、その先の生活は保障されない。算術の苦手な私にも、損得勘定は簡単だった。 人より早熟な体をまさぐられながら、諦めのついた私は、もう何も見ずに済むように固く目を瞑った。 すると、夏の草木や、土の匂いが鼻腔の奥を掠めた。まだ私が里にいられた頃、|ある忍《あの方》と手合わせした日々の記憶が蘇る。真夜中、クナイを探しに山へ行かされ、結局見つからず殴られた記憶も。――そうだ、あの時の|屈辱と痛み《支配のされよう》に比べたら、|こんなのは《肉体の陵辱など》何ということはない。 思考に没頭するうち、目の前の男は果てていた。男は私の体の心配をし、身綺麗にしてくれた。だから、優しい人なのだと思った。 その夜以降、食事や買い物に付き合うたび、男はこれまで以上に報酬を弾むようになった。年々老いていく男は、やがて私に同衾を強要することもなくなっていった。 私は、それが私のような女に規定された正しい生き方なのだと理解した。自由になるためには金が必要で、それをせしめるには|男たち《パトロン》の存在が不可欠だった。 男たちと良い食事をし、良い酒を酌み交わし、時に夜を共にする。何を言えば男の心が騒ぎ、何をすれば男の心が確かになるのかを知り、実行し続けた。 相手が忍であれば、|欲しい情報《あの方について》を得ることもできる。 美しい、綺麗だと私を褒めちぎる言葉は、生来照れ屋で引っ込み思案だった私に自信を齎した。たった数時間を共にするだけで与えられる報酬も、その自信を裏付けるようだった。 その頃には男たちの伝手で、傭兵忍務も多く行うようになり、ようやくこの有り余った力を行使する機会にも恵まれた。 夜、男たちに揺さぶられるさ中、私はいつも里で見ていた横顔や背中を思い描いていた。記憶の中のお姿はいまだ鮮烈で、思い出と呼ぶには不釣り合いだった。 どうやら私は、知らないうちにそれを追いかけていた。追いかけ、再会叶った暁には、お役に立ちたい、などと思うようになっていた。 あの背中に必要とされるためとあらば、|報酬《功績点》のそう高くない忍務にも、あるいは|難度の高すぎる忍務《ミッション・インポッシブル》にも、男たちとの|探り合い《疑似恋愛》にも、くだらないマナーレッスンにさえ身が入った。 いよいよ私のことを本名で呼ぶ人がいなくなった時、私は「青嵐」という|風《忍》になった。 「藍」――その名を捨てたのは、|ただ一人《あの方》だけにそう呼んでほしかったからだった。 * |男《教授》は大往生だったという。 彼の正妻だと名乗る人は頭を下げ、言った。日く、「うちの人が長いことごめんなさい」と。 私は被害者だったのだろうか。 彼は罪人だったのだろうか。 だとしたら、行為中、決して自分を瞳に映そうとしない少女を愛し続けるしかなかった、それが既に彼に与えられた罰だったではないかと思う。 |私《青嵐》は男に――男たちに愛されていた。 けれど、私は男たちを愛そうとはしなかった。 なぜなら私にとって、彼らは男《《たち》》でしかなかったからだ。 |私《藍》にとっての|男《愛》とは、ずっと昔から、|ただ一人《あの方》だけを指すものだったから。 * 花を手向けた手を、ハンドソープで入念に洗い流す。紫に輝く|ピアス《枷》をはめ直し、鏡の中の自分にしばし見とれる。 ――と、少し離れたところから声がした。振り向いて、リビングへ向かう。 「ただいま戻りました、イズレ様♡」 この方の前に立つと、|私《藍》はたちまち何も知らない|処女《おとめ》のような心持ちになってしまう。 愛は、私を愚かにする。正しくは、この方の存在が私を愚かにさせるのだ。外で持て囃されることの無意味さを|理解《わか》らされ、ただ一人の手中に収まることの|幸福《降伏》を教え込まれてしまう。 叩き込まれた|技術《蠱惑》のなんと使い物にならないことかと内心嘆き、無力感を味わいながら、私は今夜も愚直にその方に抱きつき、そのお姿をじっと瞳に収める。 |傾国の女として育てられた《世界忍者連合の忍たる》私が、|国益を守ると宣う男《比良坂機関の忍》を愛してしまったというのも、|なかなか珍奇な話《儘ならなくて好い》じゃないか――そんな風に思いながら。 二〇二四年十二月四日 ことね 二〇二五年三月十一日 改稿
Loading...