何か

何が処刑される前の話

白塗りの無機質な空間で、錆びたパイプ椅子に腰掛けていた。 周囲数メートルのところを取り囲むようにして、気味の悪い白装束がじっとこちらを凝視していた。その視線は顔用の前掛けのような布で遮られていたが、全員が押し並べて顔面と思しき部位を俺の方に向け、監視の意思を強く|顕《あらわ》していたため、視ているのだろうと判断した。 そいつらに別段興味はなかった。これから俺が辿るであろう末路さえ、俺は興味がなかった。 死ぬ直前に人は走馬灯を見るのだという。だがどれだけ待ったとて俺の脳裏に浮かんで来るものはなかった。今の今まで楽しみにしていたものが、手元まで来たところで急に「ありませんでした」と告げられ嘲笑われたような、そんなつまらない感情でいっぱいだった。 なのでその走馬灯とやらは自前で用意しようと思った。最後くらい、楽しく生を終えたかった。 臭いを追いかけるようになったのは、いつ頃からだったろうか。 鼻の奥の「|臭《にお》い」。苦く、もう二度と思い出したくないのに、なぜか何度も嗅いでしまいたくなるようなその臭い。 同じようなものにシンナー臭があるが、あれは繰り返している内に脳を壊す。だが俺のは心を壊していくようだった。その臭いが鼻の奥を|過《よぎ》れば|過《よぎ》るほどに、それが現実には存在しないことを知って心が耐えられなくなっていく。 だから俺は探すことにした。取り除くなら、まずはその正体を知らなくてはならないと思ったからだ。臭いの正体はどこかに転がっているかもしれない。むしろ俺はどうしてそれを今まで|一意的《ユニーク》なものだと定義していた? 俺は俺の心と嗅覚に心当たりはないかと問いながら、それを探し始めた。 臭い立つ時、必ず脳裏に過る光景があった。女だった。それも笑っていたり、腕っぷしが強かったり、髪に色が着いていたりした。髪は長かったように思う。 心情としては殺意だったように思う。シンプルにただ「殺したかった」。理由は分からないが、なぜか無性に殺したくなるのだ。その時にそれを達成できなかった後悔が、俺の中に「臭い」として残っているのだろうと俺は推測した。 |何分《なにぶん》「心」は分からない。目には見えないし、形がないのだから存在するかも怪しい。なのに人間は誰でもそれを在るものとして話す。俺には理解の難しい話だった。 だが、そんな俺にも心があるのだとしたら、その心こそがこの「臭い」を発している根源なのだろうという仮定はあった。だからまず心が求めるものを理解しようと思った。俺は、俺が「臭い」とセットでたびたび想起する「殺意」という感情に注目することにした。 人を殺すのは悪くなかった。生への渇望がねずみ花火のように目の前で光って回って爆ぜるようなあの感覚は、任務で何回か触れたパチンコという遊戯の演出に近い趣があった。ぐるぐると数字が回って、揃うか揃わないかというところでいつまでもせめぎ合う。どっちに転んでも俺にとっては面白く、結果自体に興味はなかった。ただその直前でどちらに転ぶか分からない不確定性、それをこそ俺はきっと嗜好していたのだと思う。 なので人を殺すことにした。任務で人に触れる機会は少なくない。これは比良坂機関という組織の全体に漂っていた意識だと思うが、已むを得ない状況に陥らない限りは|人死《ひとじ》には出すな、が鉄則だった。だが俺にとっては、俺のこの精神状態こそが「已むを得ない状況」だった。ある日から、任務でしなくてもいい殺しを繰り返した。得意だった損得の四則演算は出来なくなっていた。 だが幸い俺は仕事ができた。これは質というより量の話だが。一人じゃ大抵へばってこなせないような量の仕事を受け持つことで俺は評価された。それも「いい仕事」としてはあまり認識されていない、要人暗殺や威力偵察の案件を中心にかき集めた。上の奴らは怪訝な顔をしていたが、そんなことはどうでもよかった。任務のついでに人が殺せるなら儲けもんだった。 臭いを追いかける以前にも任務で人を殺したことはあるが、サクッと|殺《や》ってサクッと終わり、のそれに快楽を覚えたことはなかった。なので俺は少しでも殺しに嗜好性を持たせようと思った。例えば今にも息が絶えそうなところを敢えて延命させて様子を見たり、あと一分で死ぬってところで命の素晴らしさを説いて窮鼠猫を噛むの状態にするなどして、多種多様な感情の爆発を収集した。だがどうにも満たされず、それどころかそんなことを繰り返すたびに臭いの根源から遠のいていく感覚さえあった。 俺は趣向を変え、女を殺すようにした。任務であまり女を殺す機会はない。なので俺はなるべく比良坂での地位を上げようと職務に邁進し、訓練も率先して行い、上司や周囲からの信頼を得た。そうすると、日陰仕事の多い比良坂にあっても対|忍《シノビ》の案件が降ってくるようになった。俺は仕事に充実を覚えるようになった。その辺りは毎日が輝いていたように思う。 女の感情は強い。そして女といえども忍は強い。|然《しか》らば女の忍が体内に保有している感情など、それはそれは強いものだった。  男は駄目だ。男の忍は今際の際に清々しい表情を浮かべる奴が少なくなく、俺はそういう手合いに遭遇するたびに神経を苛立たせていた。 だが女は違った。女は死ぬ間際に大体泣いたり半狂乱になったりした。俺はそれがなかなか面白くて、臭いの大元に少し近づいた実感があった。だが一般人の女はすぐに壊れて駄目で、それもやはり俺の神経を苛立たせた。つまるところ、俺は「しっかり殺せて感情が強い」、女の忍を殺したいのだと思った。 臭い立ってきた。 俺はそれから千回任務があったら千回人を殺した。八割くらいは女で、そのまた八割くらいは忍だったから、アベレージで一日あたり六十パーセントくらいの確率で女の忍を殺した。もう四十パーセントの日はひどく神経が苛立ったものだが、何とか耐えて「いい仕事」を待った。俺は次第に「汚れ仕事」ばかり好き好んでこなす「汚れたシノビ」と評判になり、それでも需要はあったのだろう、女と寝るような仕事も舞い込んでくるようになった。 女と寝るのはそれなりに興味はあったが、いざやってみるとつまらないものだった。生と生のぶつかり合いなど、まさに俺が嗜好しそうなものだと思いはしていたから、面白いと感じる余地はあったように思う。だがその「面白い」に至る機会はただの一度として訪れず、事の最中はその後どう殺すか、どう今を脚色したら死の瞬間が輝くか、ということを想像して過ごす時間に終始した。それも悪いものではなかったが、つまらなかった。 そうなると途端に停滞してきた。生に触れ、死に触れ、感情の悲喜交交に触れ、僅かに臭い立つこともあったが決定的ではなかった。俺は次第によく分からなくなっていった。心が何を求めているのか。それとも、やはり心など最初から存在してなどいなかったのか。俺の世界は再び灰色に染まっていった。その頃から俺の殺しは惰性的になっていた。 つまらない日々。顔を千回変えても、女を千回殺しても、正解のケースに辿り着くことはない。そうしている内、俺はいよいよ自分で自分が正体不明になった。顔をあてがわれるまま生き、その哀しさに殺人し、思考も四肢の感覚も失くした。 気付けば目の前には絞首台。つくづく禄でもない人生だった。 『本当はどうなんだ、臭いの正体に気づいているんじゃないか? 気づいてなお、求めてもそれが二度と目の前に現れないことを知っていて、自分で見つけ出すほどの情熱もなくて、その事実に耐えられないだけなんじゃないのか? 俺の前から逃げ出したアイツを追いかけるなんて無様な真似はできないからな? でもアイツがいたら人生は変わってたかもな? いや無理だ、お前がお前を、お前の人生を破壊したんだ。昔も今もそれは変わらない。もう死ぬしかない、こんなつまらない人生を終わりに出来る機会に感謝しよう』 俺の声した俺のような何かが俺に声をかけている。ああ、俺だって匂い立ちたかったさ。でもあの時感じた痛みは、失った感情は、あそこに全部置いてきちまったんだ。 あの時流した最後の泪に、きっと俺が詰まっていたんだ。 川に投げて捨てちまうんじゃなかったな。 死出の門が開く。目の前の男が何かを言いながら俺につけた首輪を引っ張る。階段の一段目に足を乗せる。 ああ、つまらねえ。最後になんか思い残すことはないか、ああ、何か――。 |藍《あい》、お前を殺したい。 二〇二二年七月九日 かいり
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