名前

青嵐視点『五里夢中・情』の前日譚

『先生たちって付き合ってるの?』  それは、御斎学園に潜入していた時の、生徒の無邪気な問いかけ。 『ねぇ、見て見て! あのカップルの、男のヒトの方。タイプかも~」  それは、|その人《イズレ様》と並んで歩いてる時の、小蝿みたいな女のひそひそ声。 『相棒シーズン26[#「26」は縦中横]、今夜22[#「22」は縦中横]時から始まります!』  それは、藍が好きな刑事ドラマのタイトル。 『小夜。俺たちは……ただの幼馴染、だろ?』  それは、藍がたまに読む少女漫画に書かれていたセリフ。 『お嬢…………ご堪忍を……』  それは、藍がザッピングのさ中にテレビで目にした、任侠映画の一幕。    恋人。バディ。幼馴染。主従。イズレ様と藍は、そのどれでもあり、どれでもなかった。高所で殺し合いながら、平地で睦み合いながら、「好き」だの「愛してる」だの散々に言い合って、それでも藍たちは――否、藍は。二人の今に、|ラベルを貼る《名前をつける》のを避けていた。  イズレ様のおられる比良坂機関では、内乱や外患を招く可能性のある者――組織にとっての仇敵や、上級妖魔がこれに該当するらしい――の存在を認めた時、まず始めに行うのが、それ《《らしい》》名をつけることだという。  これは、古来から続く|妖《あやかし》や物の怪退治の名残らしい。  曰く、名前と魂は直結しており、正しく名付けを行うことで、実体や事象への分析が捗るとか、そうして姿を捉えることでその|業《わざ》に綻びを観測できるとか、そのモノ自体を破壊することさえ容易くなるとか何とか――しかし実際のところは、報告書の体裁を整えるのに、敵をナンバリングするだけではお上が承知しないため、忍らしく如何にも強靭でイカしたネーミングを、|比良坂機関《あちら様》では必死に考えるのだそうだ。  比良坂機関内での、藍のコード名――「|インディゴブルー《重要監視対象》」というのも、侃々諤々の議論の末、ようやっと決められたものらしい。藍には「青嵐」という名が既にあるではないですか――尋ねると、イズレ様はこうお答えになった。作戦行動を起こす際、|広く知られた《背景「有名」持ちの》「青嵐」という二つ名を口にしては他流派に情報が漏れる恐れがあり、都合が悪いと。成る程、情報管理を重んじる|比良坂機関《そちら様》らしい。藍のように、|接敵、即殴ればよかろう《「ではクライマックスフェイズです」》とはいかないのだ。……それにしても、インディゴブルーだなんて、「藍」なるこの名に肉薄した名付けを行ったのは|誰なんだろうか《まさかイズレ様ですか》?    ――話が逸れた。この頃の藍は、イズレ様のお話されたことや、その時のご様子などを何くれとなく頭の中に思い起こしてしまい、それによって自らの思考を停止させてしまうことがままある。    そう――ラベル、|ラベル《関係性》の話をしていたのだった。  まず、「恋人」。藍たちは同居しており、言葉にて「好き」同士と確認を取ってあり、また肉体関係にある。しかし藍は、夢見る子どもではないため、知っている。たった一夜を過ごすため、平然と好きだなんて嘘を吐く人間がこの世にいることを。なので、藍たちが恋人であるかは定かでない。  次に、「バディ」。相棒ともいう。藍たちは、自らに課された【使命】によっては、共闘関係を結ぶことがある。先日の御斎学園での一件がそうだった。イズレ様が隣に並び立てば、藍は心強く、また嬉しい。だが、それも|ひと時のこと《協力型の時だけ》。忍務が終われば、次に戦場で相見える時には対峙する可能性だってある。なので、藍たちはバディではない。  続けて、「幼馴染」。藍は辞書を引く。「子どもの頃に親しくしていたこと。また、その人」とあり、藍はすぐに辞書を閉じる。藍たちは互いの幼い頃を知ってはいるが、全く親しくなかった。なので、これはかなり違う。  最後に「主従」。その手触りはなかなか悪くなかった。否、好い。――違う、これはイズレ様の口癖。藍が真似をしてはダメ。さて、イズレ様は藍の|雇用主《クライアント》ではないが、目上の方であり、絶対的存在であり、藍はあの方に芯から逆らうことなど決して出来ない。どうやら従者というのは|主《あるじ》を「さま」付けで呼称するようだし、藍たちのこれまでにも、あるいは藍の心にも、これはなかなか|気安く馴染んだ《丁度よかった》。  藍は、その後一週間ほどを、主従モノといわれるジャンルの漫画とアニメ、さらにはテレビドラマや映画をあまねく頭に詰め込むのに専心した。なお、藍は長文を読解するのが大の苦手なため、小説の類は除外した。 「あーんっ、そこです! やっちゃえバーサーカー……!」  一つ目に観たのは、英霊と魔術師がタッグを組み、ツーマンセルで聖杯を奪い合うテレビアニメ。この作品には、|藍とよく似た声の《CV浅●悠》騎兵が登場し、新聞片手に流し見していたイズレ様が、騎兵の早期退場を残念がっていた。 「はっ、はぁっ……!?[#「!?」は縦中横] く、クナイをっ、な、投げるなどぉ……っ! ずびっ、ずび~っ」  それから、冒頭に語った、任侠一家の総領娘と、その世話役たる暴力団組員が、数々の難事件を乗り越えて結ばれるメディアミックス作品。題して『|これ故意《なまきく》』シリーズは、藍のしばらくの贔屓作となり、今でも思い出すと涙なしには語れない。 「評判通り、ネズミが出るまで待ってよかった、よかったぁっ……!」 『これ故意』で泣き腫らしたあとには、中華風ファンタジーを舞台に、国王と、神獣たるキリン――首の長い方ではない――が、力を合わせて統治を行うテレビアニメを観た。原作小説のタイトルがすこぶる格好よく、藍はイズレ様にねだり、小説を全巻買ってもらったが、今のところ装丁と背表紙を眺めるので満足している。これら典雅なタイトルは、次なる奥義の命名に生かそうと思う。    数多の作品を鑑賞し、その数だけある「主従」なる像を蒐集し、そうして、藍はふと気がつく。  たとえば、従者は、主の世話をする。炊事洗濯掃除――あらゆる家事を担い、生活の手助けをする。  たとえば、従者は、主のために働く。家事を終えたあと、また別の場所に出勤する従者がことのほか多い。  たとえば、従者は、主と共にいる。決して分かたれることはなく、|宿命《さだめ》という呪いにも似た絆によって制約されている。  しかして、従者は、主のために果てる。主の命令に殉じ、あるいは主を守るために命を賭す。    では、藍はどうだろうか?  イズレ様は世に言うハイスペック上忍だ。家事に熟練され、職務に邁進され、お出来にならないことは恐らくない。だらしない藍に人並みの生活をさせるため、家事を一手に担い、|三年の沈黙から復活《月夜に吹く風は煙り》してからというもの、傭兵稼業の依頼がなかなか舞い込んでこない藍を|変わらず《贅沢して》過ごさせるために、家計を支えてくださっている。主というより、太くて堅すぎる大黒柱といった趣だ。  他方、藍は強いが、それだけだった。食洗器に皿をセットする過程で割り、私娼の心得と傭兵忍務以外を知らず、出来ないことだらけ。イズレ様と共に暮らし始めてからは殊更に酷い。お隣で眠り出せば止まらず、イズレ様のおられない間は寂しさのあまりスマートフォンでネットショッピングやらソシャゲやらに勤しむのをやめられない。イズレ様に渡された真っ黒カードは、魔法のように際限なく課金可能で、藍をゲーム内イベントで嬉々として走らせ、忍神がごとく無双させた。翌月、明細をご覧になられた時のイズレ様のお顔といったら――否、そうではない。そうではなくて。  とにもかくにも、藍は、藍自身を鑑み、従者たる資格を持ち得ないと結論する。どう見積もっても尽くし不足の捧げ不足で、藍は、きっと藍が死亡した時、天秤のバランスが丁度よくなるだろう、などと藍らしく後ろ向きに過ぎる妄想をして満足し、思考を終える。  「主従」もなし! 頭の中でその二文字に大きくバツをつけ、漫画が積まれたサイドテーブルを眺めながら、藍はソファの上で虚しく寝転がった。 「はぁ~っ。……では、何だというんです……? いずれさま、いずれさまが、お答えをくださったら、お言いくださったら、藍はそれでいいですのに……」   「――俺が、何だと?」 「うっ、わわっ……ひゃゎっ、いず、れっ、さ、まぁっ……!?[#「!?」は縦中横] あばばっ……」  ソファで仰臥する藍の体に突然大きな影がかかり、藍は危うくソファから転げ落ちるところだった。藍がいくら思考に耽っていたからといって、音もなく歩み寄られ、藍を毎度びっくりさせるこの方は、|言霊術使い《キャスター》でありながら、|気配遮断スキル持ち《アサシン》でもあるらしい。 「ただいま、藍。遅くなって悪かったなァ、いい子にして待ってたか? ん?」  イズレ様――藍が初恋し、今も恋い慕うそのお方は、思惑通りに藍を驚かせたことに満足げなお顔をし、笑っておられた。 「ひゃひっ! む、無論、いい子、に、しておりましたぁ……っ!」  当たり前のように頭をよしよしされ、藍はおっかなびっくり首を竦めてその手を受け入れる。主従モノ漫画の山に、イズレ様がお気づきにならないようにと内心願いながら。 「よしよし。用意しといたメシも食ったようだし、いい子いい子だ。――で、俺が何だって? あからさまに誤魔化しやがって。気になるじゃねェか、言ってみろ」 「あっ……いえ、そのっ、はい、いずれさま……えと……ぅぎゃあっ!?[#「!?」は縦中横]」  イズレ様の悪さに慣れた手つきが、藍の着ているキャミソールの裾から、その素肌へと器用に滑り込む。帰宅されたばかりの冷たい指先が、|栄養過多《食べすぎ》ですっかり肉のついた藍の腹肉を強かに掴み、藍はそのひやっとした感触に思わず体を跳ねさせた。  そのまま、イズレ様は藍の首筋とか髪などに鼻先を埋め、嗅覚にて藍をお検めになる。猫吸いならぬ、藍吸いなる儀式らしい。 「すぅ~~~……はァ……藍ィ……。何だ、忍務以外で俺に【秘密】かァ? 俺と根比べしようと? いい度胸だ、悪くない。否、好い――」  汗ばんだ地肌までも嗅がれ、藍は恥ずかしさに身をよじる。この方相手に、藍は、藍の【秘密】を欺く|気概《詐術》があるはずもなく、されど藍には自ら心を語る|勇気《意気》もなく、されるがままになりながら目を白黒とさせる。 「んっ……そんな、滅相もありませんっ……! でも、藍は――藍は、ぁ……っ」  |比良坂機関の上忍《情報判定の鬼》と、情報戦をする気もなければ、心理戦を仕掛ける気もない。すぐに藍は喘ぐように口を薄開け、吐息の狭間に謝罪し、その手から逃れようとした。 「しゅびばせっ……ひゃぁっ、いずれさま、う……んっ……んんっ!?[#「!?」は縦中横] …………あはっ、あはははっ、うひゃっ、待って、ごめんなさいっ、あひゅっ、んぐ……っ。ぁ……はぁーっ……はぁ~~~っ……! ねぇっ、くすぐりやだ、藍はそれ嫌いです、それは、それだけは、完全に、ズルですぅぅ……っ!![#「!!」は縦中横]」  藍が隠しごとを話さないと分かるや否や、藍の贅肉をつまんでいたイズレ様の指は、藍の弱点を狙い撃ちして必殺|こちょこちょ《範囲攻撃》を繰り出した。  どうやら、イズレ様は藍に言わせる方向ではなく、言わない藍の素直じゃなさを嬲り、虐げる方向に思考をシフトさせたらしい。イズレ様は、藍が話したくなさそうな時は無理に話させようとしない。藍が話すのを待っているのか、はたまたせっかちなご気性故に、とろくさい藍を見ていられないのか。どちらなのかは、藍には知れない。 「ん~? 俺のするくすぐり好きだろ? 藍は、俺のやることなすことぜェ~んぶ好きだよなァ?」  はくはくと息苦しくする藍を眼下に、イズレ様は楽しまれていた。こうなると、仮に藍が白状したとして、イズレ様は藍で遊び続けるだろう。藍は、そんなイズレ様のことが――。 「好きっ、すきぃ……っ! はっ、ぁ……はひっ、ぅ゙[#「ぅ゙」は縦中横]……だっ、け、どぉっ……ほんと、にっ、本当ぉ~に、昔からっ、それだけ、イヤなんですぅ……っ!」  果たして、藍の|意志薄弱な抵抗《嫌がるフリ》は、わしゃわしゃと体中を這い回るイズレ様の激しい手つきによって完封され。藍は無理やり笑わされる。 藍たちは、笑い合っていた。  *   「――――|『永遠の箱庭』《イモータル・ガーデン》を構築」 「《結界術》にて|異界創造《ガーデニアライズ》、是に|領域拒否《アンチアクセス》を付与――」  だから藍は、そんな|時間《今》を、ただ永遠にしたかった。  この心に名付けするなど恐ろしく、とてもじゃないが出来そうになかった。たとえイズレ様がそうしようとしても、藍は頑なに拒んだだろう。|その行為は《ラベルを貼ったら》きっと、藍たちの、この一瞬一瞬に輪郭を作らせ、そこに綻びを生み、いつか破滅を招くに違いないからだ。  イズレ様が踵を返し、冷たく背を向ける。悪い顔して心を翻す。藍を傷つけて喜ぶ。それでも藍は追い縋り、振り払われる。十八年前、イズレ様が里を去られた時みたいに。三年前、藍に胃もたれするとおっしゃられた時みたいに。  イズレ様の、|凶《ま》がった面差しを愛していながら、同じだけ恨んでもいる藍の頭は、いつでも鮮明に不吉な予感を描き出すことができた。そんな苦しい|想像《未来》を、藍は殺してしまいたい。箱の中にしまい込み、決して破れない錠前をかけ、誰にも開けさせないようにして安心したい。  藍は、今、愛されている。好いていただいている。大丈夫。イズレ様は嘘をつかない。嘘をつく暇などない。    本当に?  ……本当に、そうだろうか。    一体誰が、今という刹那に対し、永遠を保証するだろう。  藍が? イズレ様が? ――まさか!  |この世界《現し世》に永遠などない。必ず果てがあり、終わりがあり、尽きていく。だからこそ今この一瞬を貪り、平らげ、皿を舐め取り惜しむ。  そういう、今という時間の再現性のなさを思うたび、藍は気がおかしくなりそうだった。どんどんとおかしくなっていった。頑丈で壊れ知らずの藍は、それでも奇妙に正気を保っていた。  そうして藍の中の疑念は無限だった。いくら愛されど底抜けに深く、文字通り、藍という心の器は底が抜けているらしかった。疑念は時に、蛇のごとく輪廻の輪を描き、藍の心を不穏に取り囲んだ。  藍の心は摩耗していた。擦り切れ、疲れ果てていた。  イズレ様が戯れに「好き」だの「愛してる」だのおっしゃられることに。お情けで藍に手を伸ばし、愛でてくださることに。イズレ様は、昔から藍で巫山戯るのがお好きな方だった。  何より、藍は――呆れ果てていた。  |そう《愛》されると、雌の形した胸を期待にぱつぱつと膨らませ、毎度たちまち心ほどいて身を捧げてしまう、|空っぽな藍自身《下らない女》に。    苦悶と懊悩の果て、藍は自らの|血液《生命力》を費やし、邪法を諸手に、正確無比で完全無欠の術式を描く。  解呪不能な、絶対の結界。異界創造の術。  藍の望む一日を永遠に繰り返し、その円の中にイズレ様を閉じ込めて。無疵の玉みたいな日常を、共にお続けいただくのだ。  そんな風に藍は、イズレ様が、ただただ好きだった。    ――――あは、  ひぐっ……ひっ、ひ、   (いずれさま すき すきです) (藍なんかが、すきになって ごめんなさい) (くるしい かなしい)  (たすけて)   (きづいて)    (つれだして)  (ここは くらくて) (いずれさま)  (何もきこえない 何もみえない――) (あいは ずっと、)  う、はぁ……ひっく、ぐすっ…………ぁ、ふふ♡  ……あははっ、  ふふふ うふふふふふ  あはははははははははははきゃはははははは、  はっ、は、はぁ~、はぁぁ~~~~~……  …………はぁ。  あなたですか。いいですよ、藍は今、気分が好いから話し相手になってあげる。  ……藍は、おかしいですかぁ? えぇっ、こんなのは普通じゃないって? それは好きでも愛でもない?  こんなに正気で、ぜぇ〜んぶ見えてますのに? そうです、そうなんです。見えてるからこそ、恐ろしいんです! 分かるからこそ、怯えてるのに! 好きだからこそ、何も言えなくて!  はい――? |これの何処《永遠なる異界》が、幸せかと?    …………。  あなたには|無様に《そう》見えるんでしょう。さぞ不確かで、不幸せに映るんでしょう。藍を、独りよがりの憐れな女と決めつけて。  はい、そうですよ。その通りです。では、そう思われるあなたは、《《そちらで》》腕組んで見ていたらいいじゃないですか。  藍は、藍だけがいずれさまとずっと一緒。|それ《永遠》を《《ここで》》お約束していただくの。  この|異界《箱庭》の維持に全てを賭して、その果てで命尽きたら、死にゆく藍の醜い姿をご覧に入れ、いずれさまにずっとずっと覚えていていただく。これまで藍で戯れた数だけ、これから藍を思い出していただく。    だから、藍は|世界《あなた》から目を逸らし、背を向ける。丹精込めて作り上げた庭を愛し遂すため。この愛を果たすため。藍の心を無茶苦茶にした責をお果たしいただくため。    では、然様なら、無常の|現実《あなた》。  藍はあなたを、決して|愛さない《名付けない》。 二〇二五年三月二十四日 ことね
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