恋と忍トレ
婚約後のとある夜の話
ピコン♪ シャララ~ン、ラララ~……♪
「『恋と神槍』。――また俺に会いに来たのか? お前も物好きなヤツだ」
「きゃあっ……!?[#「!?」は縦中横] やだぁ、藍は決して、そんな浮気者ではっ……! マヒロったら……っ」
スマホ画面に大きく表示されたタイトルと、その隣で異様なリアリティをもって動く男性キャラクターを見ながら、藍ははしゃぎにはしゃいでいた。
――『恋と神槍』。今もっともハマっている、スマートフォン向け恋愛シミュレーションゲームをその日の藍はプレイしていた。
なんと今日は大幅アップデートが行われ、新たなシステムの数々が実装されたというのだ。藍はイズレ様がお預けくださった真っ黒カード片手に、課金も已むなしの心でゲームに臨んでいた。
今週のイズレ様はお帰りが遅く、そのお忙しさといったら、藍がスマホで送るメッセージをたびたび既読無視されるほどだった。
藍は暇で暇で仕方なく、仕方がないので、件のゲームに取りかかることにしたのだ。
実装されたシステムはそれぞれに魅力的だったが、とりわけ藍が興味を抱いたのは――
「筋トレモードだと? 何だ、そんなのがいいのか?」
「はいっ♡ すごいんですよっ? マヒ……殿方が筋トレなさるのを近くで、さまざまなアングルから見ることができ、何というかその、それが、すっごくリアルなんですっ。息が上がったり汗ばんだりなどし、殿方それぞれに運動強度への反応も異なり……とてもゲームとは思えませんっ!」
夕餉を終え、ルーフバルコニーでランタンの灯りに照らされながらのコーヒータイムを楽しんでいた藍は、イズレ様に、その新たなる素晴らしいシステムについて意気揚々と語ってみせた。
「お前はてっきり古戦場を駆け回るのが好きだとばかり思っていたが――まあ、考えてみればそれもそうか。|クラン《流派》への貢献が必須なゲームより、|ソロプレイ《単独行》に集中できるシミュレーションゲームの方が|お前向き《ハグレモノらしい》かもしれないな」
少し前まで藍がハマっていたソーシャルゲームを引き合いに出しながら、イズレ様は納得したように言い、コーヒーをひと啜りされた。
藍の方はといえば、たっぷりのミルクとお砂糖を入れていただいたカフェオレを味わうフリをしながら、マグカップ越しにチラチラとイズレ様のご様子を窺う。
「いっ、いずれさま、は、トレーニングなどなさらないのですかっ? ……藍と同じ生活してて、太られないのは何でだろ……」
「同じモン食ってはいるが、量が違うだろ。俺はお前が食べるのを見ると満足しちまうし、今はお前より|戦闘《現場》に出る機会が多いから――」
「で、でもぉっ……そうかもですけどっ。トレーニング、たまには、した方がよくないですか? 汗を流すのって、すごくいいですよねっ? |功績点も稼げ《上忍頭になれ》そうと思いませんっ?」
遮るように藍は早口に言う。今宵の藍にはしたいことが――正しくは、していただきたいことがあった。
「するのは構わんが、今日はそろそろ寝…………おい、藍。おい。何をしている?」
バルコニーを抜け、足早にリビングに戻る藍を、イズレ様が眉を寄せて見ている。藍は聞いていないフリをし、分厚いトレーニングマットを取り出した。
広々としたリビングの床にそれをくるくると展開しながら、藍はとぼけた表情で顔を上げて。
「へっ? ぁ、いえっ、とれ、トレーニングの準備ぃ…………」
「……。藍ィ――さてはお前、俺にしてほしいんだな? その『筋トレモード』とやらを。それならそうと、最初から素直に言え。ったく……」
ため息をつきながらそうおっしゃるイズレ様は、存外、満更でもないご様子だった。最近のイズレ様は、藍がワガママを言うと不思議とお喜びになるのだ。
「そ、そんな〜っ!?[#「!?」は縦中横] まさか、まさかいずれさまに、『恋と神槍』の筋トレモードを再現いただくなどっ! 息切らし、汗ばむお姿をこの目で間近に見たいなどぉっ! 藍はそんな、そんなぁっ……♡ あーんイヤですっ、藍をそうも不埒で邪な女と思われてぇ……っ!」
イズレ様がお悪くなさそうなので、藍もすっかり嬉しくなってしまった。まだバルコニーにいらっしゃるイズレ様の腕をぐいぐいと引っ張り、リビングへとお誘いする。
「お前は、こと俺に関しては不埒で邪な女だろうが。――素直に言うならやってやるがどうする?」
藍に腕を引かれ、バルコニーからリビングに繋がるガラス扉を抜けながら、イズレ様がニヤリと笑った。
「っ…………ほんと? 見てていいのっ? な、ならっ、し、してほしいっ……してくださいぃっ……♡」
藍は尻をフリフリとしながら、嬉しさいっぱいの顔でイズレ様を見る。
「何の足しになるか知れないが、恋人が喜ぶなら俺も喜んで、だ。ほら、さっさとそっち行け」
「あっ、あっ♡ そんな乱暴に♡ 藍はまだ心の準備が、あぁっ……!」
目をキラキラとさせた藍の尻を、イズレ様が促すように足でげしげしと押された。そのお導きに逆らえるわけもなく、藍は素直にマットを敷いた方角へ向かっていく。
「間近に見たい、とか何とか言ってたな。じゃあそこに寝転がれ」
マットを顎でくいと指され、藍はクエスチョンマークを頭上に浮かべながら大人しくその指示に従い、マットの上に仰向けになる。すると。
「――えっ、やだっ、いずれさま、そ、それは……それはぁっ! ……はぁ、ヤバい〜…………♡」
寝転がった藍の顔の横に手を置くようにして、イズレ様が腕立て伏せのような体勢を取られた。もしかしなくともこれは――床ドン、というやつだ。
途端、藍の顔は真っ赤になり、思わず両手で顔を覆うなどしてしまう。それを見たイズレ様は、至極満足げなお顔をしながら藍のスマホを手に取る。
「ゲーム画面見せてみろ。その男と同じメニューをこなしてやる。……ハッ、お前の|男《キャラ》はこの程度で奥歯を噛み、汗をだらだら流しやがって。俺なら――」
イズレ様は、ちょうど筋トレモードにしてあったアプリの画面を検められた。マヒロ――藍が特に気に入っているキャラクターだ――は、画面の中でせっせと片手腕立て伏せをこなし、汗を流している。
その様子を見たイズレ様は、こんなのは屁でもないとでも言うように鼻で笑い、藍のスマホを床に置いた。
その表情でふと気づいたことがあり、顔を覆ったままの藍は、指の隙間からがっつりイズレ様のお姿拝しながら口を開く。
「……いずれさま、いずれさま?」
「ああ? 何だよ、藍」
このご様子では、マヒロを早く圧倒したくて仕方ないのだろう。イズレ様はこう見えても負けず嫌いで、昔から|勝負事がお好きな方《元・背景「戦闘狂」持ち》だから。
だが、勝負事と思われるのであれば、藍にもお伝えしたきことがあった。それは、この|戦闘《筋トレ》におけるルールというやつだ。
「恐れながら……汗止めの術はなし、です。毒術で感覚麻痺させるのもなし。無論、身体操術もなりませんっ! |忍の業《特技の使用》は全部ダメっ。|マヒロ《一般人》と同じレギュレーションにて、筋トレお果たしくださいまし♪」
「……何だと? 藍、お前は強い俺を見たいんじゃないのか? それを忍の業を禁止とは、理解できねェ……」
訝るようにイズレ様の片眉が跳ねる。が、藍は自らの欲望をどうしても果たしたく、構わず言葉を続ける。
「藍は、申しましたよねっ? 息切らし、汗ばむイズレ様のお姿をこそ間近に見たいのですっ。…………お聞きくださらないの? 藍のわがまま、お嫌ですか? 見たいな、見たいのになぁ〜っ」
これは最近、本当に最近気づいたことなのだが――イズレ様は、藍の「してくださらないの?」だとか、「お嫌ですか?」だとか、問いかけの類に弱いらしい。
もっとも、これは生来の藍の口癖なため、普段は意識して使うことはない。とはいえ、|こういう《おねだりの》時は積極的に使っていくべきだろう。
藍とてこれでも上忍、戦略性なく生きているわけではないのだ。ふん。
そんな藍に対し、指の隙間から見るイズレ様は一拍だけ呼吸を置き、そうして。
「……レギュレーション承知した。否――|恋人《お前》が喜ぶなら俺も喜んで、だな。ハァ……笑ってくれるなよ」
覚悟が決まった――あるいは、諦めたという表情で、藍を見た。
「笑うわけありませんっ! 神妙さバリバリにて、筋トレモードのいずれさま、蒐集させていただきますっ……!」
「言ったそばからニヤけやがって――頼むから可愛さで俺の足引っ張るのはやめてくれよ? よっ……と」
藍を真下に、イズレ様は左手を腰の上にセットされると、|片手腕立て伏せす《マヒロを超える》べくお手本のように正確なフォームを取られた。
「じゃあ始めるか。応援頼むぜ? 藍ィ――」
「百四十一、百四十二――ハァ……ッ、ぐ……クソ、ああッ……! ニヤニヤ、しやがって……っ!」
「んふっ、でゅふっ……♡ ニヤニヤなどぉっ……しておりません〜っ♡ いずれさまぁ、ギブアップしてもいいんですよ? マヒロも、百回でフィニッシュしてるのですし〜っ……」
藍はまだ恥じらいを捨てきれず、顔を両手で覆ったまま、その隙間からじっとイズレ様のご様子を蒐集していた。
イズレ様の苦悶されるお姿のあまりの色香と珍しさとに、藍の鼻息はちょっとうるさかったかもしれない。
今日も戦闘やら書類仕事やらをこなし、遅くにご帰宅されたイズレ様はさぞお疲れのはずだ。それでも、藍のためにこうしてくださる僥倖を思うと、藍はニヤけずにはいられなかった。
「は、ァ……ッ、ふぅ……ッ! 否、|マヒロ《そいつ》がそれなら、倍は上回らないと気が済まねェッ……」
「……でもいずれさまぁ、百を過ぎたあたりから、藍の乳をクッション代わりに、たまにご休憩されてません?」
「く……はぁ、ハァッ……あッ? 何だと……?」
百三のあたりから感じていたことを藍が告げると、イズレ様の動きが静止する。やたらに大きく突き出た藍の胸をいいことに、時折イズレ様がお休みされているのではないか? と藍は薄っすら疑念を抱いていた。
それはどうやら思いもかけない指摘だったようで、イズレ様は虚を突かれたような表情をなさる。そんなイズレ様を見ていると、藍は何だか得意な気持ちになり――つい調子に乗って、顔を覆った手のひらの下で、ぐふふ、と笑いを漏らしてしまう。
「で・す・か・らぁ〜っ! 藍のおっぱいで休憩してますよねっ? それはズルですっ、マヒロは支えなしにこれをして、」
「おい、藍ィ――。お前、やはり俺を侮っているな?」
「あぇっ……!?[#「!?」は縦中横] は、はいっ……?」
決して腕立てのフォームを崩さないまま、右肘を曲げ、ぐっとお顔を藍の至近まで下ろしたイズレ様は、たぶん、もしかしたら、少しだけ、苛立っていらした。
その剣呑な雰囲気に呑まれ、また、イズレ様の顔が近くまで迫った緊張もあり、藍は目を見開き、あわあわと声を上げる。
「確かにズルして二百程度じゃ不十分だな? 俺にそんな気がなくとも、お前の乳肉の感触を味わっていたと言われたら否定のしようもねェ」
「えっ、あっ、そうは申しましたけど、でも、ですから、十分に堪能させていただきましたし、そろそろ終わりでもいいって、藍は――」
まずい、やり過ぎたかも。調子に乗るのではなかった。藍は慌てて軌道修正にかかるが、こうなった時のイズレ様は絶対に藍の言うことを聞いてくださらない。
「気が変わった。そうまで言われて黙ってる俺じゃないのは知ってるよな? 三百――否、千回やってやろうじゃねェか」
それまで気だるそうにメニューをこなしていたイズレ様が、藍の服でぐい、と汗を拭い、それから――なんとも挑戦的な眼差しで、パチンと指を鳴らした、その瞬間。
「あっ!?[#「!?」は縦中横] やだっ、なんで、いずれさまっ……! れ、霊糸は禁止ですぅ……! ほどいてっ、ほどいてくださいぃっ……!」
藍の手首はいつかのように、イズレ様お得意の|霊糸《縄術》で拘束され、束になった手首が藍の頭上にある床に固定される。
両手の自由を奪われた藍は、顔を隠すことができなくなり――興奮でずっと真っ赤になっていた顔がイズレ様の御前に露わになってしまう。
「|レギュレーション違反《器術分野の使用》恐れ入るが、ここからは|本気《マジ》だ。お前は俺の表情を蒐集していたようだが、俺もこの先はお前の顔を見て|成功《すす》むとするぜ。それには手で覆われたままじゃ敵わん。可愛い顔、しっかり見せてくれよ――なァ、藍ちゃん?」
果たして、藍が望むと望まざるとにかかわらず、イズレ様による筋トレモードは再開されたのだった。
*
「八百二十五、んっ、八百二十六ゥ――フ……フフ。ハァ〜……おかげで捗ってるぜ、藍ィ」
「んくっ、んっ、んん〜っ……! ひゅんっ……はぁ、待って、息継ぎ……いずれさ、まっ、」
藍の頭はふわふわとして、今にも窒息しそうだった。それというのも。
「ああ、はァ……ッ……ぐ、滅茶苦茶に好い、一回ごとにチューしてやる気促進してもらうとは――俺がこれまで思いついたシステムの中でも最も効率的だなァ、ハハッ、ふゥ……ッ」
再開後、顔面が露わになった藍に対し、イズレ様は腕立て一回ごとにキスをする、とされた。それにより藍は自分ペースでの呼吸がままならず、この段になってなぜだか藍の方が消耗していた。
「ねぇっ、も……もぅっ、藍はもう、満足をいたしましたっ……! 夜も遅いですしっ、そ、そろそろ、んむっ、ぁ、いずれさま、ごめんなさいぃっ、マヒロと比べたりしてぇっ――」
「へぇ? やっぱりお前、挑発してたな? 一丁前に煽りやがって可愛い奴――ほら、口突き出せッ」
むぐ、と唇を引き結んでチューを拒もうとする藍に、イズレ様が発破をかける。苦しいはずなのに、かわいい、などと言われると、藍はつい素直にお誘い唇をしてしまう。こういう時、自分がどれだけ情けない顔をしているか想像すると、藍はこそばゆく、また恥ずかしくてならなかった。
「は……んぶぅっ、ちゅ……ん、ねぇっ、やだ、これ恥ずかしいですっ! 恥ずかしいぃぃ……っ!」
「知るか……ァッ! たかだか|常人《一般人》の、それも画面上のキャラクターと、恋人の、ッこの俺を、比べるなど……っぐ、ハァ、はァッ……!」
どうにも癇に障ったらしいところを口にされると、イズレ様の感情の昂ぶりに合わせるようにして、藍の手首を縛める霊糸がギチギチと締め上げられていく。
藍は、珍しきお姿に萌えたい気持ちと、完全に《《キレちまった》》イズレ様に怯える気持ちとの狭間で、ついに涙目になりながら喉を引き攣らせて謝罪する。
「んやぁっ……すみませっ、しゅみません゙[#「ん゙」は縦中横]〜っ……! だって、余裕なくなるいずれさま、おかわゆくてぇっ〜〜〜!」
「ハハァッ……ハァ、ふ……ッ、じゃあよ、このまま|とことん《千迎える》まで満喫してもらおうじゃねェか……ッ」
この間にも、藍たちはチューを続けている。藍は酸欠でくらくらとしてきて、イズレ様のお姿を目に収めるどころではなくなっていた。
「ひょわわっ……あと百以上もチューするのですかっ? 無理です、無理むりっ!![#「!!」は縦中横] 藍の頭はフットーしてしまいますっ……! ぁ、ちゅっ……ねぇぇっ、いずれさまっ、許し――ん、ふぅぅっ……!?[#「!?」は縦中横]」
「あァ〜……嫌がってるお前の舌も好い。否、最高だァ……ッ。ぢゅっ、八百六十三、八百六十四――っと」
「ごめんなひゃっ……ぁ、ふ、ぢゅぷっ、やら、息、くるし……んひっ゙[#「っ゙」は縦中横]、ぷはっ、ぅんん゙[#「ん゙」は縦中横]……っ!」
舌を吸われ、藍はいよいよ弱りきって身をよじり、懸命に抵抗する。息苦しいし、こんな|距離《間合》では心臓がどきどきとして止まらない。
それでもどうにか顔を背けようとすると、イズレ様は腰に置いていた左手で藍の頬をむぎゅっとされ、心から楽しそうに藍の反応の全てをその瞳にしかと収め、じっくりと味わって。
「逃げるなァ、藍? 苦しそうな俺の顔、しっかり蒐集してくれよ――?」
パニックで目を潤ませ始めた藍を見、どうしてかイズレ様の下腹は立派に|苛立っ《大黒柱し》ていた。
不規則なチューの嵐に、終盤の藍はほぼ失神状態だったと思う。
「九百九十八ィ、九百九十九ゥ――ハハッ、とうとう来ちまった、千、だァ……ッ」
「はひゅっ、んひっ……は、はぁっ……はぁーっ……! ふぐっ、は、ぁぁ〜〜〜っ……」
「どうだ、藍ィ? マヒロより俺の方が好かったよなァ? あはッ、俺よりお前が顔真っ赤で汗塗れじゃねェか。息切れもひどいぜ。大丈夫かぁ?」
仰向けで無様に呼吸を繰り返す藍の横で、イズレ様は肘ついてその上に頭を乗せ、リラックスした体勢で横たわった。
「はふっ……ん、はぁっ……いずれさまのペースに合わせ、藍は、七百以上もチューを、してたんですよ……っ!?[#「!?」は縦中横] 藍は、終盤の、記憶が……ございませんっ……!」
霊糸の行使を解除され、チューが終わり、ようやく自由を取り戻した藍は、ぜい、はあ、と肩で息をしながら、涙目でイズレ様を見た。
今回の展開は予想外だった。しかし、だけども――。
「フフ、俺を煽った罰だな。俺は恋人喜ばせるのは好きだが、他の男と比較して焚き付けてくるような欲しがり藍ちゃんには容赦しないぜ。これに懲りたら――ん? 何だ、その顔は」
藍の物言いたげな視線を受け、すっかり警戒を解いていたイズレ様がまた怪訝な面持ちをなさった。まったく、好い勘をしていらっしゃる。ようやく呼吸の整った藍は、えへへ、と小さく笑って、そのお顔を見上げる。
「いえ、その…………もう一つ、お願いが。筋トレモードには撮影機能が実装されており、つまり……もう一度あれをしていただき、今度はローアングルからの撮影を試みたく…………」
「は――ハァッ!?[#「!?」は縦中横] 藍、お前…………」
半身を起こし、イズレ様が絶句される。でも、これに関してはイズレ様が悪いのだ。
「だって、途中で思い出しましたのに、霊糸で縛られてて撮影できなかったんだもん。……マヒロは、撮らせてくれますよっ?」
「なっ――」
あからさまに挑発的な物言いをすると、イズレ様は目を瞠り、お前は|本気《マジ》でそれを言っているのか――? みたいなお顔をされる。
しかし、両手が自由になった藍はもう怯まない。念のため、霊糸を封じる類の結界を張り、にこっとイズレ様に笑いかける。
「ふふっ、欲しがり藍ちゃんは懲りないんです♪ ほらっ、お早くぅ!」
最初のようにイズレ様の腕を抱き、再び腕立て伏せの姿勢になっていただくよう容赦なく促す。
「……お前、もしかして最近帰りが遅かったことへの仕返しでもしてるつもりか?」
「えぇっ? 何のことですかぁ? 連日既読無視されたことなど、藍はちっとも気にしておりませぇ〜ん♪」
既読無視を重ね、恋人を寂しくさせた代償がこれなら、安い方ではないか。ああでも、寂しさのあまりゲームに熱中し、マヒロをありとあらゆる衣装に着替えさせるため、課金しまくったのはさすがに|まだ言えないが《今は【秘密】》――。
「クソッ、気にしまくってるじゃねぇか。ああッ、今週は妙に文句言わないと思ったらそういうことか……」
強引に起こされたイズレ様は、今度は左手を床につき、片手腕立て伏せを始めようとなさる。利き手でない方の腕でするそれは、先ほどのそれよりきっとお辛いことだろう。
好い表情を撮れる予感にキュンキュンしながら、藍は思うのだ。
これに懲りたら、来週はきっとお早くお帰りくださいね? お忙しいばかりじゃ許してさしあげられないって、藍はいつか言ったでしょ――なんて。イズレ様の恋人になってから、少しばかり藍は浮かれているだろうか?
「おらッ、さっさとカメラ構えろ。もう一度行くぞ」
「はいっ、いずれさま♡ 藍は、マヒロより、どんな殿方より、お優しくてお強いいずれさまが、大大だぁ~い好きですっ♡」
東京都は港区の夜更け。とあるタワーマンションの一室に、|上忍一名《イズレ様》の苦しげな呻き声が響き渡った。
二〇二五年三月二十七日 ことね