声溜め
青嵐と別れて二年後の何
「三十連勤。四十連勤。忘れたな。それを論じることに何の意味がある? この|比良坂機関《ブラック企業》で」
顔色が優れないなどと抜かしてくる弓削に対し唾棄するが如くそう吐き捨てた俺は、もう何度くぐったか知れない麝香会総合病院の正面玄関を横切った。
|藍が去って《風が吹いて》から二年が経っていた。季節は冬で、世界には色が欠け続けていた。あるいは春も、夏も秋も同じ。ただ一点その|色《藍》がないだけで、俺の視界にはグレースケールのつまらない風景が映るばかりだった。
自動ドアを出れば、ビルの谷間を抜けて勢いづいた木枯らしが俺の横っ面を殴りつける。風だ――俺は手を伸ばし、虚空に|掌《てのひら》を握り込むも、そこに感触はない。ある筈もない。ただ冬の乾燥した冷気が俺の|皸《あかぎれ》を深くするだけ。ひゅうひゅうという音は、ともすれば俺を嘲りたいとする観客共の嗤笑だ。
ポケットに手を突っ込めば、ずっとその感触がある。紫泪石。これが在る所為で六大流派にしつこく纏わりつかれ、これが在る所為で比良坂に再雇用された。
決定的となった|あの日《別れ》の後、すぐに大ぶりのが俺の目からカランコロンと零れた。ベランダから投げ捨てたい思いに駆られるも踏み留まった。俺と藍――否、俺とインディゴブルーを括りつけられるのは、この石だけだったからだ。
今日はもう退勤だ。運よく携帯電話が鳴り響きさえしなければ、このまま家に帰り着きおおせる。道すがら、自動販売機で適当な缶ジュースを買い、味わうこともなく胃に流し込んだ。代わりに舌下腺から捻出した毒を缶に詰め、起爆符を貼りつけて|目視せず《ノールック》で背後の気配に向けて放る。二、三秒程して響いた「ギャッ」という短い断末魔は、五月蝿い木枯らしに乗って路地裏へと溶けていった。
男か女か、一般人か忍かの違いなど、最早どうでもいいことだった。俺に近づく人間は押し並べて気色悪く、臭くてたまらなかった。
マンション近くのスーパーで卵と|栄養補充食《カロリーメイト》と安物のドリップコーヒーを買う。レジに貼られたポイント何倍デーだののチラシを見て、俺はようやく今日が何月何日かを把握する。そんなのが俺の二年間だった。
|向かい風《アゲインスト》は好い。俺にあの女の居た事を、それを自ら失う選択をした「後悔」を、身を切り刻むようにして思い出させてくれる。燻る火種に酸素を送り込んで火柱を上げさせてくれる。それは果たして俺の身の内を殺さんほどに焼くのだが、いっそ死んでしまえるのならそれでもよかった。俺は苦しかった。それでもなお、生きていた。
ビニール袋片手に、マンションのエントランスを踵を鳴らして歩く。コンシェルジュだの通りすがりの住人だのが、俺の顔を見て目を逸らす。エレベーターに備え付けられた鏡に目をやると、頬はこけ、クマの酷い男の顔がそこにはあった。こんな顔の男に「おかえり」などと言われても癪だろうな――俺は笑った。コートの上から胸を掻きながら。
呼吸をし、廊下を歩き、自室の玄関扉を開錠する。その最中、何匹かの蚊を落としたようだった。自室の周囲に張り巡らせた不可視の誘蛾灯、もとい|外患迎撃霊糸網《パトリオット・トポロジー》は忍の持つ霊力に反応し、自動で切り刻む代物だ。肉片の一片も残さず塵に返すから|清潔《クリーン》でいい。頭の中にチャリンチャリンと|経験値《功績点》の積まれていく音だけがした。
玄関扉を開け、鍵をかけ、靴を脱ぐ。数週間ぶりの家は埃っぽくなっていた。コートとジャケットをハンガーに掛けようと寝室に入り、埃の中に埋もれた懐かしい匂いを吸う。灼かれそうになる胸に再び爪を立て、洗面台でよく手を洗い、買った食材を冷蔵庫に詰め、湯を沸かしドリップコーヒーを淹れる。|二つで一つ《ニコイチ》の意匠のマグカップの片方を手に取り、コーヒーの袋を落とし、湯を注ぐ。安っぽい豆の香りが、俺という人間の安っぽさに酷く馴染む。
リビングの灯りをつけると、床に散らばるダンボールの群れが目に入った。いずれも二年前から減りも増えもしていない。役目なく部屋の隅で埃をかぶり続けている|自動掃除機《ルンバ》は、恐らく俺自身だった。ソファに腰かけ、そんな感傷ごと不味いコーヒーを飲み下していく。「ハァ」と息を漏らすと、かつて狭いと思っていたこの|匣《いえ》が、やけにだだっ広く感じた。「……ハァ、」
「はァ、ハァ、ハァッ――あァ、あァァァ……ッ!」
その時、それまで何とか保ち続けてきた何かが胸の中で弾けた。立ち上がり、腕を振り上げ、床に叩きつけようとしたマグカップ。刹那、「お揃いですね」といつか定かではない記憶が網膜をよぎり、すんでのところで動作が|停止《サスペンド》する。
ぜえぜえと、走ってもいないのに息は上がり、胸を掻く指が血で|滑《ぬめ》ついていた。手の震えを抑えながら、体の軋む音を聴きながら、藍がよく使っていた、ソファ横のサイドテーブルにマグカップを安置する。ゆっくり息をし、視線を前に向ける。そこには、未だ稼働する時を待ったままの、傾いた|塔《ツリー》が在り。
「うッ、が、がぁぁァァァッ!![#「!!」は縦中横]」
発作のように振り上げた手に纏わせた霊糸さえ、果たしてそれを切り裂けなかった。触れることさえ出来なかった。当然だった。俺はこの期に及んで、こんな有り様になってまでして尚、この部屋の「何も変わっていないこと」を示しつけたかった。何時また戻ってくるとも、何時また愛してくれるとも知れぬその女の事を思い。俺は待っていると、そう伝えたかった。
俺はダンボールの海の中でひとり膝をついた。苦しい。胸に穴が空いている。その穴をかつて吹いていた風に温かさのあったことを、俺は失くしてから初めて気づいた。そしてその不可逆なことに、慟哭した。否、
「うッ、うぅぅッ、うおおおぉぉ……ッッ!」
今も、慟哭している。
二年前からずっと。
苦しい。会いたい。会う価値がない。否、会う価値のあるよう研ぎ澄ましてきた|二年間《これまで》だった。無謀な忍務に身を投じ、ギリギリの命の奪い合いの中で己に問い続けた。俺はあの日、どうして殺せなかったのか。否、そもそも俺は、どうして殺すなどということにこだわっていたのか、と。
俺の出自は【凶】だった。混沌と破壊が俺を満たした。そんな俺が行きつく感情表現の方法などたったの一つだった。故に、あの日、里で巡り合った宝くじの一等にも劣らぬ僥倖にさえ、俺は自ら刃を立てたのだ。どれだけ|愛《あい》なるモノが俺に追いすがろうと、何度も、何度も。
そうして至った|果て《いま》、俺の手の中に、真に掴み取りたかったものはない。俺は凶なる己のなんと軽かったことかを思い知った。孤独で、|自由《フリーダム》で、肥溜めの世を知った顔で儚んで。そんな俺のなんと矮小なことかを、そして、そんな矮小な肩に乗ろうとする小鳥も女も居ないだろうことを悟り、恥じ、泪した。
立ち止まってしまおうかとも思った。それでも心臓に焼きついた「絶望」の烙印が、ただ俺を前にとぼとぼと、否、しっかりとした足つきで歩かせた。取り戻さんとするために。再び風に手を伸ばさんとするために。
それからは、ただ只管に襲い来る激痛に耐える日々。いつ解放されるとも知れぬ針の筵に、しかし正気で向き合い続けねばならぬ日々。折れれば即ち死。藍のない、愛のない日常は、ただただ死んだ方がマシだという結論を俺に示し続けた。だが死ねない。死なない。何故なら、その|無何有《むこう》側の世界には多分、俺の見たい色がないからだ。
「藍……あいィッ、お、俺はッ、ここに、いるぞ……ッ! ハァッ、ハァ、あい、藍ィ――」
カラコロと二個、眦より床に転がる紫色した石。それは正しくサイコロの形をしていて、そしてどういう科学的合理性に基づく現象か、お誂え向きに出目のようなものさえ刻まれていた。俺は|乱数《まぐれ》なんて神にさえすがらずにはいられず、その双つを恐る恐る拾い上げた。
綻びに始まりがあったのなら、それはきっと|一《いち》の出目が二つ揃った時だった。ならば、六の出目が二つ揃うような|奇跡《スペシャル》が起こりでもしない限りは、きっと藍は戻ってこない。
自暴自棄だったとは思わない。しかしどうして、やはり俺は祈っていた。答えが欲しかった。この出目が示すものの意味で、俺は命を繋ぎたかった。だから頼む、俺に、奇跡を――。
「ハァッ、はぁッ、ハァ……アァッ!」
勢いよく放った紫の賽は、ダンボールの合間を跳ね、転がった。俺は四つん這いで追いすがるようにその先を追った。文字通り血眼で。
そうして賽の出した|出目《答え》は。
二と三で、五。
「……は、ハハッ」
その数にしばし呆れた後。しばし怯えた後。――成程、と合点する。
ギリギリの心で、体で、どんな手を使っても、みっともなく這いつくばってでも、|成功《すす》み続けろ、と。
奇跡なんてもんがあるんだとしたらその道の先だと。俺はまだまだ、至っていないと。
出来ることをする。し続ける。万策尽くして尚、策を弄し続ける。そして真に欲するものを取り戻す。それが俺という、新たなる【我】ならば。
「――わかったよ、藍。お前が帰って来たくなるような男になって、待ってるからな」
俺がそうしたい。俺がお前といたい。痛い。居たい。
独り言ちた匣の響きは空虚なれど、クリスマスツリーの電飾のようにチカチカと、俺の|視界《このさき》を照らした。
もう一人分の|居場所《スペース》を空けておく。それを頑として俺は俺に課し続ける。
その藍色を、否、最早どんな色であってさえ輝かしいだろうその女を、永遠に囲い続けておく。一度食いついたら離れぬ枷を嵌める。
それは【使命】であった。忍ではなく、唯の一人の男としての。
そして、ああ、枷というのなら、その女に似合いの。
その愛らしい顔の横で揺れる耳飾りなど、悪くない。否――好い。
*
エプロンを巻いてフライパンを振るっていると、リビングへと向かってくる女の気配がする。
「おかえり。――手は洗ったな? ならメシが冷めるからさっさと席につけ」
その日、藍は外向けの装いをしてどこぞへと用を済ませに行った。その道程は《隠蔽術》で隠しでもない限り、俺の《瞳術》に射抜かれることとなる。
視えた事柄は、あるいは今の俺にとっては些末事だった。それが何故かは、以前何時かに語った通り。
「おい、こっちに来て顔をよく見せろ。――好いな、今日もよく似合っている」
耳に下がった紫の石が、照明の光だの何だのを吸って如何様にも色を変えて光る。ああ、そうだ。どんな色でさえ好い。|過去《これまで》がどんな色であろうと、そして|未来《これから》がどんな色になろうと。
藍を、このどこまでも|凶《まが》り、どこまでも|澄《す》んだ女を、唯一人、傍に置き続けられることに勝る価値など、無い。
例えこの世が糞くらえの肥溜めだったとしても。何処でもない此処で、何者でもない|何《いずれ》として、俺は生きていくつもりだ。
匂い立つ、鼻腔を覆うこの芳しさを、変わらず頼りにして。
二〇二四年十二月五日 かいり