緑色の目の怪物

青嵐が他の忍者にやられ、何が敵討ちする話

その日、藍は手負いで帰ってきた。 シノビなんてモノをやってればかすり傷程度なら日常茶飯事だ。だが今回は違った。腕や頬には生傷が幾つも赤い線を引き、骨も両手で数えるくらいには逝っていた。 苛立つ話だが、藍の|戦闘するシノビ《たたかうバカ》としての腕は確かだった。型に嵌まろうとしないハグレ連中を我流だ傍流だと脳直で揶揄する|盲《カス》は鞍馬あたりに多いが、こいつは嵌まらないんじゃなくて嵌まれなかったのだ。こいつの|才《バカ》は型で抑え込めない。世界忍者連合とかいう|才《バカ》の受け皿はこの女のためにあるようなものだった。 だから猛烈に苛立つ。傷つけるということは理解しているということだ。藍は俺以外の何者かに猛烈に理解された。その事実が俺を苛立たせているのだと気付いた時、俺は俺の中に身に覚えのない感情が渦巻いていることを知った。 剰え、藍は脂汗を浮かせた酷い|面《ツラ》で、それでも遠い目をして笑っていた。俺はそのことが何より憎かったらしい。気付いた時には俺は藍のその薄ら笑いを蹴り飛ばしていた。そうしてもこの苛立ちが消えることはなかった。 「お可愛い人」 壁に叩きつけられ、ヒューヒューと細い息を吐きながら尚一層に目を悦ばせ、藍は壁に背をもたれるようにして俺にそう言った。 また|此奴《こいつ》は俺を見下ろしていた。ようやく《《それ》》に気付いたのかと云うような目で俺を嘲っていた。此奴はこういう時しばしば俺を見て嗤う。俺はその度に身の|裡《うち》に渦巻く苛立ちを極めていた。 だが俺にはその目の意味する処が未だ不明だ。俺はこの感情の正体に名前を付けずにはいられなかった。ただ予感はあった。何故ならこの期待にも似た胸糞悪さは、あの時|藍《あい》に|再開《であ》い|藍《あい》を知る前のそれと同じだったからだ。 「身の程を弁えろ」 「おや、お優しい言葉。この体に染み入ります」 「黙れ。これ以上喋るなら殺す」 「それ以上は勘弁してください。あばらが砕けてますから、噛み締めるにも辛いのです」 呻いて笑う口元から鮮血が零れる。藍は「失礼」と腕で隠すが、その表情にあっては涎を拭う動作にしか見えなかった。 「そいつの特徴を教えろ」 「まあ。うふふ」 「女か?」 「まさか。殿方です」 「そうか」 「それだけで?」 俺は帯やら|帷子《かたびら》やらの忍装束を肌の上に巻いて、その上から無駄に目の整ったシャツを羽織った。 「いつも言っているが酷い匂いだ」 「部屋とワイシャツと私、ですよ」 「匂い立つな」 「性別だけでよろしいのです? ――ぐっ!?[#「!?」は縦中横]」 藍が素っ頓狂な声を上げると、その肢体が宙に浮いた。俺の指先に呼応して細い線が光り、藍の身体が良きように形を変える。 「容赦のないこと。ですが整います」 「全て刀傷だな。大柄で、腕に迷いがない。だがこの匂いはなんだ? 痺れ薬か。この分だと殺せたのに殺さなかった……随分遊ばれたようだな」 「流石です。この私が一方的に嬲られてしまいました。不本意でしたが楽しくもあり……痛い痛い、痛いです」 「毒を出してやっている。肩も入っただろう」 「強めが|好《い》いのをよく分かってらっしゃる」 俺が踵を返した瞬間、糸を切られた操り人形のようにして、音を立てて藍は落下した。 「整体のお仕事を為されては」 「変態相手はお前一人で十分だ」 「うふ、勿体ないことです」 中空に散った銀糸を巻き取り、苦無と幾つかの小銭を適当に全身に仕舞いこんで、俺は住処を出た。 空は薄曇りで、俺はそのことにも余計に苛立った。 三日後の夜、俺はある男の前に立っていた。 「お前だな? 刃に毒を塗って甚振るのが好きな小心者のクソ野郎ってのは」 「鼠が嗅ぎまわっているのは分かっていました。ですが、やれやれ、まさか女の匂いのする優男とは」 男は俺のシャツを見て鼻を覆う仕草をした。それについては全く同感だったから返す言葉はない。 「女の匂いがすると興奮する|性質《たち》だったか?」 「それで女性だったらなお良かったのですが、残念ですね」 「その感想には同意する」 ふむ、と男は俺の余裕を値踏みするように、悦に入った目で全身をねめつけた。 俺も苦痛だが彼奴の全身を注意深く視た。立っ端があって功夫も充実している。とても毒に頼るような類の戦い方を必要としているシノビには見えない。 「嗜好しているな?」 「あなたと同じですよ」 「そうか?」 「匂いで分かります。凄い数の女の血の匂いだ、眩暈がする」 男は言いながら体温と心拍を僅かに上げた。突っ立ったままあれだけ身体を温められるなら光熱費が浮くと思った。 「お前とは趣味が違う。一緒にされるのは心外だな」 「おや、都合よく嗜虐できる|女性《モノ》を傍に置いている人から出てくる台詞とは思えませんね」 「何だと?」 「そうでしょう? 素晴らしいモノをお持ちだ。あれだけ痛めつけて壊れない玩具を持つあなたが羨ましい。器量に富み忠義にも篤い。この毒で私の手に堕ちなかったものはいないというのに」 そう言うと男は物干し竿ほどある長刀を恍惚とした目をして舌で舐った。止め処なく噴出する粘液が刀身に纏わりつくや否や、肉を焼くような音と蒸気とが悪臭を伴って俺の目と鼻を突いた。俺は目も鼻も閉じて今すぐ死にたい気分だった。 だがそれ以上に不快だったのは、今しがた彼奴が放ったその言葉が、魚の小骨の如くして俺の耳管に引っかかったからだ。 「あれが玩具だと言ったか?」 「何を今更ご自身の本質をお隠しになるのです? あなたもあれを弄んでいるのでしょう、今だって僅かにあの人の血の|芳香《におい》がしますよ」 彼奴の言葉に、確かに、と腑に落ちる自分がいるのも分かっていた。弄んでいると言えばそうだし、玩具と言われて反駁できるかと言われたらそうでもない。 だが俺は俺と此奴の間に何か決定的な違いがあるべきだと思いたいらしかった。どうしてそう思うのか? 同じ穴の貉だと言われたらそうだ。同族嫌悪という表現で纏めてしまうならそれが最も簡単だった。 だが妥当ではなかった。少なくとも俺はそんな簡単な答えを得るために三日三晩も寝ずにこの男を追ったとは思えなかった。俺がそうするに足る、もっと深淵な回答がそこにはある筈だ。俺はもう少しヒアリングを続けることにした。 「お前はあれが欲しいのか?」 「ええ、貰えるものなら是非とも頂戴したいです」 「貰ってどうする?」 「それはもう、自分の好きな形にしたり、色々出来るでしょう」 「だがそれは別に自分の物にしなくても出来るんじゃないか? なぜ他人の物のままではいけない?」 「そんなの……妬けるじゃないですか」 「やける?」 焼ける。灼ける……おいおい、妬ける、か? 言葉としては知っていた。だが俺にその言葉に相当する感情があるとは露ほども思わなかった。己にさえ固執しない|存在《おれ》が物の所在一つで自己を狂わすなど、そんな人並みのことに右往左往する余地があるほど俺の人生は恵まれていなかったように思う。 だがその言葉こそが今の俺に嫌に当て嵌まりそうな気がして、俺は猛烈に鼻の奥が匂い立つのを感じた。 「そうなのか?」 「はい?」 「この感情がそうなのか?」 「おや。おやおやおや。まるで子供のようなことを言いますね。今日は女性でなくとも良しとしましょうか」 男の目が恍惚と殺意に染まっていくのを俺は見た。俺はまた一つ自身の感情に回答が得られたことに酷く清々しい気分になりながら、同時に初めて|男《おす》を積極的に殺したいと思った。 そう思った瞬間、俺の腹部にじんわりと重い感覚が広がるのを感じた。 「俺もお前みたいな変態じゃない方がよかった。まあ最初ってのは大体そんなもんか」 「男に弄ばれるのは初めてで? 光栄です」 俺は視線を落とす。自分の脇腹から木の根っこのようなものが生えていた。それは背後、地面から真っ直ぐ俺をめがけて伸びていて、俺は植物が身体を貫通するのはこのような感覚なのかという感想に浸っていた。 「土遁の類か。罠は俺の専売特許なんだがな。権利侵害で金を取らせてくれ」 「生憎、金目の物は持ち合わせておらなんだ。あの世への六文銭くらいならすぐ工面しますよ」 そう言うが早いか背後にもう一つ気配が迫っているのを感じた。これを食らえば俺は死ぬだろう。 「謙虚だな。毒を出せる唾液腺なんかは斜歯あたりに高く売れそうなもんだが」 「人生の最期を他人への敬意で締めくくれるとは、見上げた人です」 「その評価はそっくりそのままお前にくれてやる」 「は?」 そろそろ俺は腹を二度貫かれて死ぬ筈だったが、その時は来なかった。それもそうだ、罠は俺の専売特許だと、ついさっき俺はそう言った。 「なまじ腕が立つこと、そして自尊心が人一倍強かったのがお前の良くなかったところだ。上には上が居ることに耐えられず里を抜け、究めるべき路を逸れて毒術なんぞに手を出した。次第に目的が求道から殺人に遷移した。だが一般人を殺す度量もないから女の弱いシノビばかりを殺してきた。拷問は芸術だが、ただ甚振るだけなら虫を突つくのと変わらねぇ」 「何を……した……」 「罠とは入念な準備と洞察と理解の上にようやく機能するもんだ。お前は俺に同情したようだが理解はしていない」 彼奴は全身が硬直したように動きを止めていた。いや、したようにと言い表すのは不適当だった。正しくは《《硬直していた》》。 「まさか……|金糸雀《カナリヤ》知らず……? その服から漂う匂いは、遅効性の猛神経毒だというのか……! ならば、なぜ、あなたは動けている? ただの、比良坂の抜け忍如きが……!」 「さっきお前は玩具と言ったな? お前の言う|それ《バカ》には毒が効かねぇ。ならもっと強い毒を盛りゃあいいんだが、それだと俺も動けなくなっちまうからな」 「容易に、体に慣らせるような毒では、ないはずだ……!」 「俺はこういうもんだ。取っといてくれ」 俺はそう言って懐から名刺を一枚取り出し、彼奴の額を目がけて投げ込んだ。それが額に刺さる直前、彼奴は何とか合わせた焦点でそれを読み上げた。 「医師……」 「おっと、今は廃業してたんだ。無資格だと怒られるからな、渡し賃に免じて黙っててくれよ」 俺は適当に仕舞っておいた小銭を大雑把に掴んで奴の周囲に放り投げる。それは特定の陣の形を描くように散らばって、青白い光を纏った。 「成程、相殺する薬を、予め投与していたと……」 「そんな薬は|無《ね》ぇ」 「は?」 その間の抜けた言葉が彼奴の最期の言葉だった。青白い銀糸が陣の中を渦巻き、彼奴の身体は頭部を除いて細切れに裁断された。 そうなって尚ヘつら笑いを浮かべるその顔面の、首筋の辺りを抉って出てきた彼奴の|毒袋《しかけ》を摘み、俺は最悪の心持ちでそれを飲み込んだ。 「俺の趣味はSMじゃなくて人殺しだ。命のやり合いの中でいつでも薬が飲めるかよ。あと、」 成程、|嫉妬《こ》の感情の時に出てくる言葉というのはそういうものか。 「お前には扱い切れねぇよ、あの女は」 飲み込んだ毒が全身に回っていくのを感じる。しばらく心拍と血圧の低下に襲われて死ぬかと思ったが、そのギリギリのところで俺の中の他の毒が毒を中和して、やがてただの引き出しの一つとして腹の中に落ち着いた。 俺は穴の開いた脇腹にシャツの切れ端を詰めて踵を返した。それがよくなかった。シャツに染みた薬が内臓からダイレクトに全身に回って、俺は酩酊しながら星も見えない夜を何百キロも歩く羽目になった。 「いいアイデアだったでしょう。柔軟剤にあの毒を混ぜておくのは」 「俺が予め身体に馴染ませてなかったらどうしてたんだ。眠ったまま目を覚まさなかったぞ」 「イズレ様のお体のことを熟知していない藍ではありません。最近不眠がちだったようですから、ちょうどいいかと思って♡」 「匂い立つな……」 アイデアは最初から決まっていた。此奴の恐ろしいところは、俺が仇討ちに行くだろうことを予め想定していたのではないかということだ。 もし最初から全て此奴の掌の上だったとしたら、此奴は俺に『妬く』という感情を覚えさせるために、自らいい感じに負けに行き、俺を焚きつけたということになる……? 「精悍なお顔が一層精悍になってます」 「いつどうやってお前を殺すか考えていた」 「殿方まで守備範囲に入られてしまっては、ライバルが増えてしまいましたね♡」 「|功績し《手に入れ》た千里眼をつまらんことに使うな」 「あれ、バレてました?」 「男とも戦うな」 「それではイズレ様の傍にも居られませんね、お暇をいただきます♡」 俺は前にも増して鼻の奥が匂い立つようになった。 全てはこの狂った女の所為だ。妬くなどという感情で男を殺すような自分になりたくなかったと、俺は酷く神経を苛立たせた。 二〇二三年三月二十一日 かいり  
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