|芥《ごみ》
青嵐と再会する前の護衛忍務
「要人警護?」
聴いて久しいその言葉の綺麗さに、久しぶりに腹を使って声を出した気がした。
投げるように手渡された書類に並ぶ文字を眺めると、その任務の名にそぐわぬ聞こえのいい文字の数々が白紙の上を踊っていた。
「上からの直接のお達しだ。君にこの仕事が回ってくるとは信じがたいがね」
「そうですねぇ。砂と埃の仕事ばっかり回されてる俺に、こんな仕事を任せてもらえるとは光栄です」
「汚れ仕事を好んでいるのは君の方だろう」
「あれ、そう見えます? 俺は皆がやりたがらない仕事を率先してやってる良い|社員《シノビ》じゃあないですか」
言うと、上司の男はそれっきり黙って煙草に火を点けた。このご時世に紫煙で充満したオフィスとは景気が良くて仕方ない。
表向き、どこにでもある零細企業の体をした雑居ビルの一角に、俺たちの所属する|部署《チーム》は在った。上司には悪い意味で目をつけられているが、それでも営業成績の優秀な一社員が今日も明日も結果を取って来ようっていうんだ。ただでさえ糞ほどつまらない人生、それをちょっとでも面白おかしくするために多少の味付けくらいは許してもらいたい。
*
「貴様、ウブメ様の|詔《みことのり》を何と心得る?」
警護対象と接触する日の道中、電話機の声の相手は不機嫌そうに文句を告げた。
「あれ、お伺いは必須でしたっけ? 任意と聞いていたもんですから仕事を優先しちまいました。文句ならあの|上司《ひと》にお願いしますよ、ええ」
「|上《カミ》を愚弄するか。いずれ天罰が下ろう」
「そうならないようにせいぜい優秀な成績を残させていただきますよ」
「おい――」
それにしたって面倒くせぇ話だもんで電話機ごと自販機の空き缶入れの中に投げ捨てて、クライアントの待つホテルへと歩いていく。
今の|部署《チーム》は成果さえ出せば|過程《プロセス》の如何も多少の納期遅延も大目に見てくれる、実に|都合のいい《ホワイトな》とこだった。成果の前には駒の生き死になんてどうでもいい、会社に戻らなきゃ死んだと思われて人員が補充されて終わり、戻ったら戻ったで嫌な顔されて次の案件に飛ばされる。そんな糞どうでもいい繰り返しこそが俺の人生だった。
だが辟易としているわけじゃない。住み成すものは心なりけり、ってのは良い句だ。せいぜい俺は俺の生き易いように味付けさせてもらう。誰だって授かった命を無駄にしたいだなんて思わないだろうからな。
「お待たせしました、貴女が?」
待ち合わせのホテルのラウンジに着くと、髪の長い女が黒服に囲まれて突っ立っていた。白昼堂々カタギのホテルでこんなに目立つことをされちゃホテル側も迷惑だろうに、この馬鹿な女が警護対象かと思うと朝から神経が苛立った。
「その立ち居振る舞い、貴方が派遣されてきたヒトね。立ち話もなんだからお茶でもしましょ」
女はすると周囲の黒服を散らし、馴れ馴れしく俺の腕に手を回してイニシアチブを握ろうとしてくる。意味のない過剰な数の警護に、女丸出しのスキンシップ。笑っちまうくらい|書類《データ》通りの女だった。ならば俺もその|定石《パターン》通りに|挙動《アクション》を取ればいいから楽なものだ。
「エスコートさせていただきますよ。お嫌でなければ」
「あら、わかってるじゃない。フフ、いい人を捕まえたわ」
俺は|現在《いま》、滅茶苦茶に仕事の出来るイカしたスーパーSPという|設定《こと》になっている。なんだかの拳法が何段で、どっかしらの紛争地帯で傭兵の経験あり、それでいてそうは見えない体格と振舞いで|女性《おんな》人気が高く今売り出し中の――とかいう|能力値《ステータス》の。シノビってのは仕事をする上でつくづく都合のいい材質の|皮《スキン》だと思った。
「ご同業?」
「? それはどういう意味でしょうか」
「貴方、姿勢がいいから。それと右手。こんなところであんまり物騒なものを握らないでね」
「ポケットの中が見えるんですか?」
「もういいって、お互い気楽になりましょ」
俺も《《それ》》に気が付いてはいたが、依頼者の方からわざわざ身分を明かしてくるとは思わず、呆気にとられてしまった。
言わずもがな、腕を絡めた時から女が|同業《シノビ》であることは簡単に窺い知れた。忍と一般人の違いは肉や骨の気の流れの具合ですぐに分かるものだ。
俺と女はラウンジの一画に腰を下ろし、適当にアイスコーヒーを頼んだ。
「なら尚更分からないですね。なんで私に素性を?」
「面倒なのよ、色々。私だって|同業《シノビ》なのに、親はいつまでも私を子ども扱い。信じられる? 一応これでも鞍馬の血筋なのよ」
「いい親御さんじゃないですか」
「やめてよ。だから折角ならせめて同業のヒトをお願いって言ったの。退屈しないかと思って。まさか比良坂が来るとは思わなかったけど」
「クモとかロボットとかのが趣味でしたか?」
「ふふっ、話が出来るヒトでよかったわ」
なぜ俺が比良坂と分かった? とまでは突っ込まない。これは同業同士でやるケツの穴の嗅ぎ合いみたいなものだ。そのケツの皮がどれだけ厚いかでお互いの力量を測り合っている。
「なら、今日の|仕事《これ》はお嬢様の暇潰しってことですか」
「安心してよ、報酬はちゃんと出すから」
「ブラックなりに金は稼いでるんで。畜生の主食はやり甲斐ですよ」
「あら、それなら槍でも降ってくれるといいですわね」
「槍は美味くていい。ここのコーヒーは不味いな」
つらつらと適当に話をしていると女は笑った。その目は挑戦的な目をしていた。俺は鼻の奥が僅かに匂い立ったが、確信までは得られなかった。
*
「お時間はもうすぐでは?」
この仕事の主目的は、先ほどいたホテルの大ホールで開催される予定の、どこぞの企業の何周年祝賀パーティーとやらの場での警護のはずだった。
それが今、俺は路地裏の寂びたゲーセンでUFOキャッチャーの相手をさせられている。
「まだ始まるまで余裕があるし、いいじゃない」
「身だしなみとか、いいんですか?」
「つまらないこと言わないで。お互いシノビならわかってるでしょ、貴方こそ汗を止めてる」
「早着替えは朝飯前ですか」
女はヘタクソな操作で取れる見込みのないぬいぐるみを延々突っついている。こういうのは金を積めば猿でも何とかなるようになっている筈なんだが、そのプレイングには一向に進展の兆しがない。店員がいつ便宜を図ろうかと居心地悪そうにこちらをチラチラと見ていた。
「代わりましょうか?」
「楽しみの邪魔をしないで」
「はぁ」
女は取れないことを楽しんでいるかのようにしてそれに没頭していた。俺はただ胸ポケットに詰められた千円札を五百円玉に替えるだけの仕事をした。
つまらなさに神経が苛立ちを隠せない。どこかの隙に男の一人でも殺そうかと考え始めた頃、ふいに周囲の気配が緊張した。
気配の先をチラと伺うと、明らかに目のおかしい男が三人、女の退路を塞ぐようにルート取りをしながらこちらに向かって来ていた。気配が漏れまくってるのを見るに、草から上がりたての|逸れ《ハグレ》の下忍のようだった。
俺は女の方を見ると、女はまだゲームに没頭しながら笑っていた。いや、アレは嗤っていた、が正しいか。
「面倒な女だ」
男たちの体格、心境、目線や骨格のクセから歩幅を割り出す。女の周囲2メートルほどのところを目掛けて今しがた両替した五百円玉を数枚ずつ投げる。念を練り込んだそれらが効力のある陣を描くと、常人には見えない結界がそこに浮き上がった。
立ち並ぶゲーム筐体の影に仕込んだので簡単には見破れまい。そうは思ってはいたが、あまりに簡単にその思惑通りに引っかかったものだから興覚めだった。それはそれで神経が苛立ったので、俺は陣にかかって硬直したそいつらを糸で引き、路地裏の適当なところで痛めつけて殺した。
「見ていたんですか?」
「要人警護の醍醐味じゃない? 誰かに護られるって」
「貴女の暇潰しに彼らが死んでいったと思うと浮かばれないですね」
「鞍馬も人が多いのよ、草刈りだと思って」
成程と思った。女は鞍馬のそこそこ良い|処《とこ》の出で、この仕事はお姫様の気まぐれかと思えばその実、競合の戦力を削ごうという魂胆でここにやって来たのだ。競合とは言え同じ|流派《ムジナ》の忍なら、自分の手を汚そうとすると角が立つ。それで俺のような薄汚れた比良坂に――というのが、この仕事の本来の筋書だろう。
「俺が勝てなかったらどうしていたんですか?」
「だからこの場所にしたんじゃない。罠を張るにはちょうどいい場所でしょ?」
「俺を試したんですね」
「仕事をさせてあげないと、貴方も帰りづらいでしょ」
女の目は嗤っていた。俺を試して遊んでいるのだ。俺の神経はそれなりに苛ついていたが、鼻の奥に匂いの気配があったので、やや高揚する思いで苛つきを紛らわした。
*
「この度はわが社の云十年記念パーティーにお越しいただき誠に――」
いかにも恰幅のいい初老のハゲが何かしらを宣い、酒と飯が振舞われ、殺気を隠せない雑魚の群れが辺りをうろついた。
その間にも女は自分の正体を隠し続けた。機を待っているのではない。どうなろうと関心がないのだ。この女も俺と似て、そこそこ人生に飽いているのだと分かった。だから気まぐれに女をやって自分の人生を面白く味付けしているのだろう。
神経が苛ついた。髪が長いだけでも苛つくものがあったが、恐らく俺はこの女を|殺し《たしかめ》たくて苛ついていた。
「数十人は分が悪い」
「雑踏での戦いは慣れてなくて?」
「鞍馬が出来るからと言って|比良坂《ウチ》が出来る訳ではありません」
「じゃあ貴方も私も此処で終わりね」
「|巫山戯《ふざけ》た女だ――」
瞬間、停電を装った暗転の中、幾本もの鉄の気配が女に迫った。俺は女の周囲に漂わせていた幾本かの鉄線を緊張させてその軌道を外そうと試みたが、それで全てを捌き切れる訳もなく、俺は女をホールの外に蹴り飛ばして、俺も一緒にホールの外へと飛び出した。
「あら、何本か刺さってるけど大丈夫かしら?」
「そこそこの力で蹴り飛ばしたがタフなんだな」
「頑健なのです、|比良坂《あなたたち》と違って」
「迷惑だな――」
間髪入れず、ホールから飛び出してきた数名の輩が常人の目では捉えられない速度で迫り来る。俺は腕や肩に刺さった苦無の数本を、抜きざまに輩の肢目掛けて投げる。当然ここは回避の流れだが、カーペットに垂れた俺の血液が輩の忍力に反応して発振、微弱な結界なれど一瞬でも動きを封じられた輩の肢に見事苦無が突き立った。
「ただの甘党なのかと思っていたけれど、コーヒーに随分物騒なもの混ぜていたのね」
「身ひとつで生き抜けていたら今頃は上忍だ」
「|私のところ《うち》に来て」
「断る」
俺は女を抱えてホテルのガラス張りの壁を突き破る。血に細工をしていたお陰で飛び散ったガラス片に力が宿り、逃げる俺たちの気配は都合よく|霧散《ジャミング》され、なんとか追手を撒くことが出来た。
*
「お疲れさま、貴方の仕事はここで終わりよ」
「やり甲斐はあったが無駄に苛ついたな」
「これに免じて、許してくださらない?」
俺は傷の影響で右腕が上がらなかったため、女の厚意で|応急手当《ファーストエイド》を受けていた。その状況をいいことに、女は俺の肢体をこねくり回した。
「随分自分に価値があると思っているんだな」
「価値はあるわ、貴方の人生に彩りを与えられる」
「例えば何色を?」
「そうね、あなたに必要なのは瑞々しさ――鮮やかな青か、ううん、それよりもっと濁った、藍かしら」
「藍――」
その色の名を聞いた瞬間、俺の神経は極限まで苛立った。
「お前が教えてくれるのか? 俺にその色を」
「ええ、教えてあげる――」
女は俺に気持ちがいいほどの勘違いを与えた。結局はつまらない女だった。あるいは、いずれ《《そうなる》》ことも分かって俺を選んだのか。
だとして無意味で無味だった。鼻の奥の匂いは次第に遠ざかって、女の体が、包帯に滲む鮮血が、じわじわと灰色に染まっていった。
俺はそれに抗うように、奥の方にある藍色を探した。
「――なぜ殺した?」
「任務の外のことを聞かれても、なんとも言えないですね」
傷の療養も兼ねて二週間ぶりほどに出社すると、上司の男から開口一番告げられた言葉がそれだった。
何とも言えない。それは俺の心をあくまで正直に言い表したものだった。匂いも色も、そこにはなかった。ただそれだけのことだ。
「君の所為でクライアントとの関係が悪くなったんだよ」
「おや、その|クライアント《鞍馬》から直々に《《よくやった》》とお電話いただきましたけどね。《《お客様ご本人》》にもご好評だったようで、お手紙なんかも頂いたりして」
「……死者から手紙が届くとでも言うのか」
「さあ、元々死んでいたんじゃないですかね? 終わった仕事なのでどうでもいいことですが」
「生意気な中忍ごときが…………下がれ」
「どうしてか|評価《功績点》が足りないもんで。こんなに仕事してるんですが」
上司の男の忌々しい眼差しがなかなかに腹を満たした。俺は一瞬満足したが、すぐにつまらなくなって、空き缶の転がる非常階段の踊り場から具合の優れない空を見上げた。
「つまらないな」
泪の一滴でも流したかったが、なかなかそんな気持ちにもならなかった。せめて曇天の上の青さ目掛けて物を思おうかと思い、胸ポケットに入っていたその厚く膨らんだ便箋二つ折りの封筒を、そのまま適当に折り畳んで歪な紙飛行機を作った。
「どこにいんだよ」
そう言って投げた紙飛行機は、手放してすぐ落下して、雑居ビルの薄汚いゴミ山の中に混ざっていった。
二〇二二年八月二十日 かいり